Through A Big Country (The “Great Box”) (notes)
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LINER NOTES

-Biography- by: Michinari Yamada

79年、当時スキッズ (Skids)というバンドで活躍する1人のギタリストがいた。それ がスチュアート・アダムソン。スコットランドの2大都市として知られるグラスゴーとエ ジンバラの間、ちょうどその中間に位置する街ダンファームラインに生まれ、70年代中半 頃からはタトゥー (Tatoa)なるバンドを結成して活動していた彼が、その時のメンバーで、 古くからの友人だったビル・シンプソンと共に、77年夏に結成したのがスキッズだった。 そして、ビッグ・カントリーのストーリーを進めていくためには、ある意味では前身のバ ンドと言えると共に、若き日のスチュアート・アダムソンが在籍したバンドでもある、こ のスキッズの話をしていかなければならない。 「スチュアート・アダムソン (g)とビル・シンプソン (b)、それにリチャード・ジョブ ソン (vo)とトム・ケリハン (ds)の4人からなるスキッズは、70年代後半のイギリス、 とりわけスコットランドにおいては、一世風靡したバンドだった。特にパンクス達の間で は熱狂的な支持を受け、後にソロ活動を経てアーマリー・ショー (Armary Show) を結成 したリチャード・ジョブソンはカリスマ的な存在とも言われ、創始者でサウンドの中心に あったスチュアート・ジョブソンも、多くのギター・キッズを刺激した。 「77年の暮、スコットランドのインディーズ・レーベル、No Bad から3曲入り EP 「Charles」を発表したスキッズ。それが一部で評判を呼んだことから、これに目をつけた ヴァージン・レコードと契約した彼等は、78年9月にシングル「Sweet Suburbia」でデビ ュー。その後ゾーンズやXTC を行なったツアー、さらには「Wide Open EP」によって人 気をあげ、79年2月には初のアルバム『Scared To Dance』を発表。同時にリリースした シングル「Into The Valley」の大ヒットで、早くもその地位を決定づけた。 スキッズは当時のイギリスのマスコミの間でも大絶賛を浴び、中でもトム・ヴァーレイ


ンやスティーヴ・ハーリィから影響を受けたというリチャード・ジョブソンの歌詞とヴォ ーカル、レナード・コーエンやニルス・ロフグレンを気に入っていたというスチュアー ト・アダムソンの作曲能力とギターのジョイントは、個性的と評価され、また、あのビル・ ネルソンが当時率いたビ・バップ・デラックスともよく比較された。 「その後スキッズは、ビル・シンプソンとトム・ケリハンが脱退し、新たにラッセル・ウ エイヴ(b)とリチャード・ベイリー (ds)が加入。80年10月にはセカンド・アルバム『The Absolute Game』を発表し、これも前作と同様に好セールスをあげた。が、スキッズはこ の直後から早くも内部で音楽的な意見の衝突が起こり始めていた。それはスチュアートと リチャードの間で、特に激しく行なわれ、結局スチュアートは、次のアルバム『Joy』の レコーディング途中で、スキッズから脱退することになる。しかし、スチュアート自身は、 それよりも1年以上も前に、スキッズ以外のバンドで活動してみたいという思いが、実は あったという。 | 79年の暮、スチュアート・アダムソンは、ある時自分と同じダンファームライン育ち の男と出会った。それが後にビッグ・カントリーのもう1人のギタリスト、ブルース・ワ トソンだった。もともとカナダに生まれたという彼は、当時デリンクェンツというローカ ル・バンドに在籍し、造船所で働きながら活動。ビル・ネルソンのビ・バップ・デラック スのファンだったというブルースとスチュアートとは、大いに話が盛りあがり、2人でバ ンドをやろうというところまでエスカレート。もちろんスチュアートは、当時はまだスキ ッズに在籍していたが、かけもちでやる気にまでなっていたらしい。

ところがブルースとのバンドを計画する一方で、意外にも早くスチュアートはスキッズ を脱退したため、そのバン


ジッキーだった。当時この2人は、リズム・フォー・ハイヤーというユニットで活動する 一方で、あのザ・フーのピート・タウンゼントのアルバム『Empty Giass』にも参加し、 さらにトニーはプリテンダーズとのレコーディング・セッションを行なっていた。が、そ れ以前にはオン・ジ・エアーとバンドに在籍し、その時にはスキッズのツアーで前座もつ とめていた。それが縁となって、スチュアートからの誘いを受けたというわけだ。

元スキッズのスチュアート・アダムソン (vo、g)と元デリクェンツのブルース・ワト ソン (g、vo)、そして共に元オン・ジ・エアー~リズム・フォー・ハイヤーで、ドミニカ

系イギリス人という黒人のトニー・バトラー (b、vo)と、ポーランド人の血をひいてい るマーク・ブレゼジッキー (ds) .........。この4人によって、'81年に結成されたビッグ・ カントリーは、まもなくライヴ活動をスタート。例のスコットランドの民族楽器であるバ グ・パイプの独得な旋律を、ギターによって再現するという大胆かつ斬新なアプローチを 見せつけた彼等は、早々と熱狂的な支持を得ることになる。特に当時ザ・ジャム(後にス タイル・カウンシル)のポール・ウェラーは大いに絶賛。彼はこの後、'82年に行なったザ・ ジャムのファイナル・ツアーのサポート・アクトに、ビッグ・カントリーを起用し、結果 的にはこれをきっかけに、彼等はフォノグラム・レコードと契約を交すこととあいなった。 「フォノグラムと契約後、ビッグ・カントリはロキシー・ミュージックやJAPAN なども 手掛けている名プロデューサー、クリス・トーマスのもとでレコーディングを開始。'82 年9月にはデビュー・シングル「ハーヴェスト・ホーム」をリリースしたが、これは全く の不発に終わる。このデビューでの失敗は、クリス・トーマスとの作業の上での失敗も意 味し、彼との作業はすぐに中断。ビッグ・カントリーは新たなプロデューサーに、当時シ ンプル・マインズやU2などを手掛け、次々に成功へと導いていたスティーヴ・リリィホ ワイトを迎え、改めてレコーディングを再開。その上で '83年2月にリリースした「フィ ールズ・オブ・ファイヤー」、5月にリリースした「インナ・ビッグ・カントリ」の2枚


のシングルは、続けざまに全英でトップ10入り。さらに8月に発表したファースト・アル バム『インナ・ビッグ・カントリー (The Crossing)』は、初登場で全英10位。最終的には トップ3を果たすにまでいたった。その要因にはこの年の夏のレディング・ロック・フェ スティバルへの出演がその1つとしてあげられ、そのライヴがアルバムと同様に素晴らし いものであることが証明された。さらに10月にはアメリカにも乗り込み、ビッグ・カント リーは、デュラン・デュランやカルチャー・クラブ、デキシーズ・ミッドナイト・ランナ ーズなどと共に将来を有望視されたのだ。

その後も「チャンス」、「ワンダーランド」といったヒットを放つ一方で、ビッグ・カン トリーは '83年の年末に記念すべきライヴを敢行。それがスコットランドはグラスゴーの バロウランドにて、'83年12月31日から '84年1月1日にかけて行なった“ニュー・イヤー ズ・イヴ・ライヴ”だった。ちなみにこの時の模様は、後に発表されたライヴ・ビデオ『ビ ッグ・カントリー・ライブ (Live in Concert ~Barrowland Grasgow New Years Eve)』で見 ることができるが、バグ・パイプの大行進をバックに演奏するシーンは、なかなか感動的 だった。

その後、スチュアート・アダムソンとマーク・ブレゼジッキーが、スティーブ・リリィ ホワイトの依頼で元アバのフリーダのアルバム『Shine』のレコーディングに参加。その 一方でビッグ・カントリーは、ストックホルムでレコーディングしたというセカンド・ア ルバム『スティールタウン (Steeltown)』を '84年10月に発表。初の全英 No.1を獲得した このアルバムからは、「イースト・オブ・エデン」の他、「バラの墓標」、「ジャスト・ア・ シャドウ」といったヒットも生まれた。さらにこの年の暮には、全英ツアーのハイライト という形で、ロンドンのウェンブリィ・アリーナにおいて3日間にわたる公演を行なって いる。 785年に入って、しばしバンド活動を休止する一方、マーク・ブレゼジッキーは、ミッジ・


のシングルは、続けざまに全英でトップ10入り。さらに8月に発表したファースト・アル バム『インナ・ビッグ・カントリー (The Crossing)』は、初登場で全英10位。最終的には トップ3を果たすにまでいたった。その要因にはこの年の夏のレディング・ロック・フェ スティバルへの出演がその1つとしてあげられ、そのライヴがアルバムと同様に素晴らし いものであることが証明された。さらに10月にはアメリカにも乗り込み、ビッグ・カント リーは、デュラン・デュランやカルチャー・クラブ、デキシーズ・ミッドナイト・ランナ ーズなどと共に将来を有望視されたのだ。

その後も「チャンス」、「ワンダーランド」といったヒットを放つ一方で、ビッグ・カン トリーは '83年の年末に記念すべきライヴを敢行。それがスコットランドはグラスゴーの バロウランドにて、'83年12月31日から '84年1月1日にかけて行なった“ニュー・イヤー ズ・イヴ・ライヴ”だった。ちなみにこの時の模様は、後に発表されたライヴ・ビデオ『ビ ッグ・カントリー・ライブ (Live in Concert ~Barrowland Grasgow New Years Eve)』で見 ることができるが、バグ・パイプの大行進をバックに演奏するシーンは、なかなか感動的 だった。

その後、スチュアート・アダムソンとマーク・ブレゼジッキーが、スティーブ・リリィ ホワイトの依頼で元アバのフリーダのアルバム『Shine』のレコーディングに参加。その 一方でビッグ・カントリーは、ストックホルムでレコーディングしたというセカンド・ア ルバム『スティールタウン (Steeltown)』を '84年10月に発表。初の全英 No.1を獲得した このアルバムからは、「イースト・オブ・エデン」の他、「バラの墓標」、「ジャスト・ア・ シャドウ」といったヒットも生まれた。さらにこの年の暮には、全英ツアーのハイライト という形で、ロンドンのウェンブリィ・アリーナにおいて3日間にわたる公演を行なって いる。 785年に入って、しばしバンド活動を休止する一方、マーク・ブレゼジッキーは、ミッジ・


Discography/Chart Action


<Album>


① 『The Crossing (インナ•ビッグ・カントリー)」
Sales Date :1983, 3 (UK)/1989, 9 (Japan)/Chart Action : No. 3
Producer : Steve Lillywhite/Chris Thomas/Recording : The Manor, RAK Studio (UK)


② 『Steeltown (スティールタウン)」

Sales Date :1984,10 (UK)/1984,11(Japan)/Chart Action : No.1
Producer : Steve Lillywhite/Recording : Polar Studio (Stockholm), RAK Studio (UK)

③ 『The Seer (ザ•シーア)」

Sales Date :1986, 7 (UK/Japan)/Chart Action : No. 5
Producer : Robin Millar/Recording : The Power Plant, RAK Studio (UK)

④ 『Peace In Our Time (ピース•イン•アワー•タイ厶)」

Sales Date :1988, 9 (UK)/198& 10 (Japan)/Chart Action : No. 7
Producer : Peter Wolf/Big Country

⑤ 『Through A Big Country Greatest Hits (スノU—ス•ア•ビック•カントリー•グレイテスト•ヒット)』

Sales Date :1990, 5 (UK)/Chart Action : No. 2

<Single>


① 「Harvest Home (ハーヴェスト•ホーム)」

Sales Date :1982, 9/Chart Action : No. /Producer : Chris Thomas

② 「Fields Of Fire (フィールズ•オブ•ファイアー)」

Sales Date :1983, 2/Chart Action : No. 10/Producer : Steve Lillywhite

③ 「In A Big Country (インナ•ビッグ•カントリー)」

Sales Date :1983, 5/Chart Action : No. 17/Producer : Steve Lillywhite

④ 「Chance (チャンス)」

Sales Date :1983, 8/Chart Action : No. 9/Producer : Steve Lillywhite

⑤「Wonderland (ワンダーランド)」

Sales Date :1983, 12/Chart Action : No. 8/Producer : Steve Lillywhite

⑥「East Of Eden (イースト•オブ・エデン)」

Sales Date :1984, 9/Chart Action : No. 17/Producer : Steve Lillywhite

⑦ 「Where The Rose Is Sown (バラの基標)」

Sales Date :1984,11/Chart Action : No. 29/Producer : Steve Lillywhite

⑧ 「Just A Shadow (ジャスト•ア•シャドウ)」

Sales Date :1985, 1/Chart Action : No. 24/Producer : Steve Lillywhite

⑨ 「Look Away (ルック•アウェイ)」

Sales Date :1986, 4/Chart Action : No. 6/Producer : Robin Millar

⑩ 「The Teacher (ティーチャ—)」

Sales Date :1986, 6/Chart Action : No. 20/Producer : Robin Millar

⑪ 「One Great Thing (ワン•グレイト•シング)」

Sales Date :1986, 9/Chart Action : No. 13/Producer : Robin Millar

⑫ 「Hold The Heart(ホールド•ザ・ハート)」

Sales Date :1986,11/Chart Action : No. 29/Producer : Robin Millar

⑬ 「King Of Emotion (キング•オブ•エモーション)」

Sales Date :1988, 8/Chart Action : No. 13/Producer : Peter Wolf

⑭「Broken Heart〜Thirteen Valleys(ブロークン•ハート)」

Sales Date :1988, 10/Chart Action : No. 45/Producer : Peter Wolf

⑮「Save Me (セイヴ•ミー)」

Sales Date :1990, 4/Chart Action : No. 44/Producer : Tim Palmer

(※チャートのランクは全て英nme誌を参占)


<Video>


"Live In Concert〜Barrowland Grasgow New Years Eve (ビッグ•カントリーライヴ)』1985


•The Seer 〜Live In New York (ライヴ•イン•ニューヨーク)』1986


•Big Country In Concert〜Peace In Our Time (ライヴ 88).j 1989


By 山田道成



Big Country―あのチャールトン・ヘストンとグレゴリー・ペックが、共演したこと で知る人ぞ知るウェスタン・ムービーの名作く大いなる西部〉の原題と、同様のネーミング を持ったこのバンドが、この世に出現したのは'81年のことだった。しかし、彼等が差し、 活動の舞台としたのが、海を渡ったかの地のアメリカではなく、自らが生まれ育ったスコ ットランドであったことは、今さら言うまでもない。

その大いなる国士スコットランドに対し、異常なまでに執着したビッグ・カントリー。 そのアイデアを生みだしたのは、もちろんこのバンドのフロントに立つスチュアート・ア ダムソンである。彼は70年代後半、今やスコットランドでは伝説と化したバンド、スキッ ズにおいて、個性派のギタリストとしてその存在がクローズ・アップされた。が、もとも とは創始者的な立場にあったにもかかわらず、そのスキッズでのスチュアートは、後にク レプスキュール・レーベルよりソロ・アルバムを発表し、あるいはアーマリィ・ショウな るバンドでも活動したリチャード・ジョブソンというヴォーカリストの個性が、彼のそれ を上回ったために、不運にも影で支える役目を果たすことになったのだ。そのスキッズは、 地元であるスコットランドの伝統的な感覚をケルト人の誇り高き血筋からくる精神を、音 楽というものに反映させていたバンドだったが、スチュアートはそれをより具体化し、ス コットランドの魂をストレートに表現するために発案したのが、このビッグ・カントリー だったのである。 「スチュアート・アダムソン(vo,g)を核にブルース・ワトソン(g, vo)、トニー・バトラ ー (b, vo)、そしてマーク・ブレゼジッキー (ds)の4人からなるビッグ・カントリー。彼等 が結成した直後から、多くの人々に対して提示したそのアプローチは、あまりにも大胆か つ斬新であり、その一方ではスコットランドの伝統や魂を根づかせたものだった。何より も画期的だったのは、スコットランドの民族楽器であるバグパイプから生まれる独得な旋 律を、見事に再現したスチュアート自身が奏でるギター・サウンドだった。まさに美しい


情景を描きだすかのようなそのギターに、これもまた大地を揺がすような強力なリズム・ セクション。そのジョイントによって生みだされた立体的とさえ言えるビッグ・カントリ ーのサウンドは、最初に耳にした誰もがとてつもない衝撃を覚えたのである。 「すでにビッグ・カントリーは、82年にデビューして以来、現在までにインナ・ビッグ・ カントリー』、『スティールタウン』、『ザ・シーア』、『ピース・イン・アワー・タイム』と いう4枚のオリジナル・アルバムに、日本では未発売のベスト・アルバム『Through A Big Country~Greatest Hits』の、計5作を発表している。その間にはスティーヴ・リリィホワ イトやロビン・ミラー、あるいはピーター・ウルフといった有能なプロデューサーに巡り 合い、彼等との作業によってそのたびに自らの音楽のスケールを拡大し、同時にスコット ランドからイギリス国内、さらにはヨーロッパからアメリカへと、その知名度も確実に広 げていった。 「時の流れと共に貫禄を増し、不動の地位さえも手に入れたビッグ・カントリー。しかし、 彼等がそのたびに提示したものは、音楽性にせよ、その方向性にせよ、つねにそこには一 貫したものがあった。確かにアルバムをだすたびに、彼等はいくつかの実験を試みてはい たが、それも決して変化のためのものではなく、成長するための実験でしかなかった。そ れは「ビッグ・カントリーの曲のアイデアは、昔僕自身がスコットランドで体験したこと が大半なんだ。その上で自分を素直に表現した音楽、つまり自由奔放にロックン・ロール することをこころがけているんだよ」というスチュアート自身の言葉からもわかる。

ある日、U2のボノが「ニューヨークやロンドンといったメトロポリスの外側の都市か ら出現したという点で、U2とビッグ・カントリーは共にアウトサイダー的なバンドと言 える」というビッグ・カントリーに対するコメントを口にしたことがあった。まさにそれ は事実であり、自らの生まれ育った土地の伝統や魂を重んじている点では、アイルランド のU2、スコットランドのビッグ・カントリーという土地の違いはあっても、あらゆる面


で似たものを感じてならない。

そんなボノが、それと同時に「U2のエッジと共に、新しい時代のギタリストと言える のは彼だけだ」と絶賛したスチュアート・アダムソンを中心とするビッグ・カントリーは、 過去10年間がそうであったのと同様、今後も周囲の状況や流行がどんなに変化しようと、 その根底にあるものは全く不変のままであるに違いない。そこに偉大さというものも感じ てしまうと言えるのである。 「それではここで、今回のボックス・セットに限り、『インナ・ビッグ・カントリー』、『ス ティールタウン』、『ザ・シーア』、『ピース・イン・アワー・タイム』のオリジナル・アル バム4作に収録した、ボーナス・トラックについて各々説明しておこう。 『インナ・ビッグ・カントリー』

A「インナ・ビッグ・カントリー (12”)」
B「フィールズ・オブ・ファイヤー(12”)」
C「チャンス(12”)」
D「ザ・クロッシング」

衝撃的な1枚と言える '83年に発表されたファースト・アルバム。ここに追加収録した のは、当時12インチ・シングルとしてリリースされた、A、B、Cの3曲のエクステンデ ッド・ヴァージョンと、ビッグ・カントリーにとってはサード・シングルとなったAのB 面に収録されていたD。3曲のエクステンデッド・ヴァージョンに関しては、当時のプロ デューサー、スティーヴ・リリィホワイトが、そのスタジオ・テクニックを駆使した秀作 と言える。特にBは、現在においても最もビッグ・カントリーらしさが十分に発揮された 1曲だ。またDについては、ファースト・アルバムの原題をそのままタイトルにしたもの でありながら、アルバムには未収録だったといういわくつきの曲である。 『スティールタウン』



A 「ワンダーランド(Extended)」
B 「イースト・オブ・エデン(Extended)」
C 「アングル・パーク」
D 「オール・フォール・トゥゲザー」

ビッグ・カントリーの初の全英 No. 1獲得作品となった『スティールタウン』に追加収録 したのは、'83年12月にシングルのみでリリースされたのの12インチ・シングル用エクス テンデッド・ヴァージョン、それに『スティールタウン』からのパイロット・シングルとな ったBのエクステンデッド・ヴァージョン、それにアルバム未収録曲であるCとD。Bは ビッグ・カントリーの数ある作品の中でも、特に過激なヴァージョンとして有名だ。また、 Cはシングル「フィールズ・オブ・ファイヤー」、Dは「ワンダーランド」の各B面に収録 されていたものである。 『ザ・シーア』

A 「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ (Live)」
B 「ロスト・パトロール (Live)」
C 「ワンダーランド(Live)」
D 「サウザンド・ヤード・ステア (Live)」
E 「ルック・アウェイ(12" Mix)」

「ここにはライヴ・テイクをメインに収録。まずは「チャンス」のB面に収録されてい たもので、録音場所は不明だが、'83年の演奏。Dはライヴ・ビデオ『ビッグ・カントリー・ ライヴ』にもなった '83年12月31日、スコットランドはグラスゴーのバロウランドで行な われた“New Years Eve Live"の中の1曲だ。また、CとDは最新シングル「セイヴ・ミー」 のB面に収録され、ライヴ・ビデオ『ライヴ '88』でも披露された'88年10月1日、ソ連、モ スクワのパレス・オブ・スポーツでのライヴである。ビッグ・カントリーの本領と言える


ライヴ演奏も、年を追うごとにクォリティーが高まっていることが理解できる。そしてE。 これは『ザ・シーア」に先がけてリリースされた同曲の12インチ・シングル用ミックス。ロ ビン・ミラーの手によって、彼等の新たな一面が浮きぼりにされている1曲だ。 『ピース・イン・アワ・タイム』

A 「セイヴ・ミー」
B 「ブラック・スキンド・ブルー・アイド・ボーイズ」
C 「プレイリー・ローズ」
D 「ハート・アンド・ソウル」

4作目となる『ピース・イン・アワー・タイム」には、最新であるベスト・アルバム 『Throug A Big Country」が、日本では未発売になっていることもあり、それをおぎなうた めの追加選曲を行なった。Aはそのベスト・アルバムに収録されてはいるものの、本来は シングル('90年4月、全英でリリース)のみで発表されたことから、現在日本では耳にし にくい存在となっている。 「ザ・ミッションやティン・マシーンの作品を手掛けるティム・パーマーのプロデュース でもあることから、これまで以上にハードなアプローチを繰り広げていることに注目した い。BとCに関しては、共にビック・カントリーでは珍しいカヴァー・ソングであること を理由に選曲。Bはギアナ生まれのスター、エディ・グラントがまだ10代の頃に参加して いたイコールズ時代、70年代到来直前に放った大ヒット曲で、一方イースト・オブ・エ デン」のB面に収録されていたのは、ロキシー・ミュージックが 74年に発表したアルバ ム『カントリー・ライフ』の中の1曲として有名だ。 「そしてDは、最も初期の作品で、シングル「ハーヴェスト・ホーム」のB面に収録。この プロデュースは、何とロキシー・ミュージックを手掛けたクリス・トーマスが担当している。

1991年3月18日、山田道成